電通を創った男たち                 <目次へ>  
 執筆者による あとがきにかえて
 【筆者;50順】 石井 泉伊藤 徳三内田 東産形 靖彦海老塚 修圓佛 誠孝岡田 芳郎
  小田嶋 伸幸北野 邦彦佐藤 孝夫鈴木 茂土橋 赳夫土屋 信雄信田 和宏長谷 昭濱田 逸郎
  深川 英雄藤江 健増田 良夫松浦 一夫         
※ スクロール 又は 名前をクリック してください


   「電通を創った男たち」ー電通人へのラブレター

                 グループD·21世話人 岡田芳郎・北野邦彦

 電通の歴史の中でユニークな活動をした人々を取り上げ、それぞれの独創的な活動から電通という企業の個性を浮かび上がらせようという趣旨で「グループD-21」ができたのは2013年です。初めはどこに掲載するかも考えずともかく書いてみようという大雑把なスタートでした。メンバーのご努力ですぐに「ウェブ電通報」で掲載されることになり発表の形が決まりました。何人取り上げよう、いつまでやろう、などの構想もなくただ続けているのが楽しい会になり、グループメンバーに会う喜びに支えられ続きました。その後、会社の都合で「ウェブ電通報」での掲載が出来なくなりましたが、幸い「社友会ホームページ」で載せていただけることになり、2019年、6年間にわたる長期連載をひとまず終結する運びになりました。取り上げたい人はまだまだたくさんいますが、それは次にバトンを受け継いでくれる方々にゆだねます。

 全篇終了の機会にぜひ一度ご覧ください。「電通社友会ホームページ」を検索し、目次の「電通を創った男たち」をクリックしてください。

 このシリーズはこれまで3期(第Ⅱ期・イキですてきな仲間たち、第Ⅲ期・個性豊かなパイオニア)にわたり30名の先輩・同僚を紹介することができました。6年にわたり続けてこられたのはひとえにメンバー各位27人の献身的なご尽力のおかげです。それは卒業してからもこの会社の仕事への愛着があるからであり、それ以上にあの時代の仕事仲間との付き合いが今もつづいているからに違いありません。

 「電通を創った男たち」シリーズは、電通へのラブレターいや電通人へのラブレターです。

 私たちが仕事をしていたころは苦しくても楽しかった。仕事が自分を生かした。今もその時に培ったものに自分が生かされていると感じるのです。


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代遅れの文士

・藤原伊織編

石井 泉

 藤原伊織執筆に当たって、北野邦彦さんが、社内報『電通人』に掲載された成田豊社長、芥川賞作家の新井満、藤原伊織の鼎談と、受賞作『テロリストのパラソル』の選考委員評の要約を担当。

 作家・クリエイターの側面を主に鈴木茂さんが、電通社員・藤原を私が担当することになった。ほとんど摺り合わせ無しにスタートした。鈴木さんと私はかなり重複することになるのではと危惧していたが、結果的には上手く棲み分けができたのではと思っている。

 ひとえに鈴木さんの力量に負うところで、彼の「藤原伊織」は完成度が高く、評伝としても十分に読み応えがあると思っている。

 さて、私の「藤原伊織」である。上司と部下、同僚、友人といった、側面が主になるが、これが意外に難しい。余りに主観が勝ったら、読み物としては相応しくないだろう。執筆に当たり,先ず社内外の数名を取材することにした。私は藤原に、純粋さ、優しさ、反権威といった印象を持っている。皆さん、特に出版社の方が同じ想いを抱かれていることに、意を強くした。

 常の藤原は優しくて友人としても最高であるが、一旦、へそを曲げると扱いに困る男でもある。電通報の特集記事が己の思想、信条に反するので異動させてくれ、と言われたことがある。藤原の誤解もあってのことで、数日かけて縷々説明、ようやく納得してもらったこともあった。

 藤原は文士と呼ぶのが似つかわしいと思っている。些かサラリーマン化した作家が多い中、破天荒な博打好き、やぶれかぶれな闘病生活…そして類い稀な文章力。なのに、何故か律儀で優しい。返す返すも「時代遅れの文士」の早逝が惜しまれてならない。


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通のニオイ

・尾張幸也編

伊藤 德三

 「日本のCMの育ての親 尾張幸也」を書かせていただきました。私が入社した時に、尾張さんはすでに局次長。新入社員にとっては雲の上の存在でした。同じ局でご一緒したのはわずかな期間だったし、直接仕事上でご指導を受けたわけでもないのに、私はなぜか尾張さんのことが好きで尊敬していました。一度だけ白山の豆腐懐石でご馳走になったことがあります。若造の私は心の中で「肉料理だったら良かったのに…」。尾張さん、ゴメンナサイ。

 尾張さんについて「これを書こう」と決めて書き始めたわけではありません。それを決定づけたのは、尾張さんご自身が学徒兵時代に書かれた反骨的な「二等水兵日記」と、奥さまの一言「もとから自由主義者だったんですね」でした。CMの草創期、海図のない航海に乗り出し、CM最盛期まで旅を続けた尾張さんの航跡を辿ると、そこには一貫して青年時代の「屈服しない自由精神」が息づいていました。それを誰かに伝えたかった。そのためにCM規制派の森喜郎議員との国会論争までほじくり出しました。

 小田桐昭さんから「尾張さんは実は、CMを好きだったわけじゃないと思う」と伺って、私は小谷正一による吉田秀雄論を思い出していました。「広告の鬼はもともと広告を志向していなかった」。お二人ともそうだったんだ…。CMであれ広告であれ、それにこだわるのではなく、人の歩いたことのない道をこそ選ぶ精神。それだったんですね。今回のシリーズに登場した先人たちは皆、同じニオイがします。そしてそれが、電通というコミュニティのニオイだと思います。今でも



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人の作法

・近藤朔編、・内藤俊夫編

内田 東

 コピーライターのことを文案家とよぶ人が、いなくなったころである。

 1962年、私は宣伝技術局近藤CDCreative Director)部に配属された。職場はいつも静かで、電話での会話が、誰が何を話しているのかわかってしまうほどであった。

 「どうしてなんだ」という怒声が響いた。近藤さんのデスクの前で、大きな背中がゆれた。私は根本軍四郎さんを羽交い絞めにしたが、偉丈夫の根本さんにズルズルと引きずられていった。背中越しに近藤さんの憮然とした顔がみえた。入社してまだ2カ月。随分と血の気の多い会社なんだなあと思った。

 映像的要素が広告のなかで広がってくるほど、コピーがスペースをデザインにゆずるほど、コピーの比重が高まってきたという実感がみなぎる。いつの時代でも、コピーが広告のバック・ボーンだという強い信念と自負が、近藤さんを占有した。花形職業のコピーライターといういわれ方を特に嫌った。「迷惑千万だ」と吐き捨てた。

 「何をいうかという広告アイデアの開発は、広告計画作業のなかの最も重要な部分です」。内藤さんは広告アイデアの捜索者であり続けた。根掘り葉掘りリサーチに這いずり回って、核心部分を掘り起こすと「私ができるのは、ここまでです」。つき物が落ちたようにしつこさが消えて穏やかになる。

 広告アイデアを表現アイデア(言葉やデザイン、映像や音楽)におきかえる制作部分には興味がなかった、ようにみえた。「私は表現のアイデアマンではない」とことわっている。

 それなのに内藤さんを「永遠のCM少年」と称したのはなぜか。ディズニーランドで、ミッキーと無邪気にダンスに戯れていた幼児のような姿が焼きついていたからだろう。法螺貝を吹き、金剛杖を手に難行・苦行した広告アイデアの修験者ではなく、頬が真っ赤なCM 少年の方が内藤さんにふさわしいからである。


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山一三氏を書いて

・横山一三編

産形 靖彦

 その出来事は昭和20年のことだったらしい。らしい、と書いたのは、その頃の私は鎌倉、由比ヶ浜のハリス幼稚園の園児であったから、世の中の出来事などわかるはずもない。しかしほぼ毎夜のように「テッキライシュウ」の大声が聞こえてくると、由比ヶ浜の彼方から轟音を立ててB29編隊がやってきて、横浜、川崎、東京方面を目指して飛んでいった。やがて夜空が恐ろしげな赤銅色に変わっていく。空襲だったのだ。

 幼心にも、何かとんでもない恐ろしい出来事が頻発していることが理解出来た。やがて蝉時雨が頻りになった頃、わが家の庭先に近所の人たちが集まってきてラジオに聞き入っていた。誰かが嗚咽を始めると、やがてその輪が広がっていき、そこにいた大人たちのみんなが泣き出したので、一体何が起きたのだろうかと不思議に思ったものだった。その日は、実は815日、その日であった。

 やがて幼稚園が再開されて間もない頃、ビルマ戦線から父の生存の知らせが届いて、母はうれし涙に咽んでいた。しかし11月末になると、待ち焦がれていた父ではなく、同じ部隊で戦傷して、父に背負われながら帰還港を目指した同郷の戦友が訪ねてきた。曰く、あと1日で帰還船の待つ港へ着くという日の朝、心臓麻痺と思しき状態で父は眠りについていたという。その戦友は父への感謝を繰り返し述べ、軍服の胸ポケットに縫い付けてあった家族の写真と一握りのお骨を持ってきてくれたのだった。

 例年、夏が近づくと「8月ジャーナリズム」が沸騰する。未公開資料や秘蔵映像の発見を謳ったメディアが繰り返し伝える事実は、酸鼻を極めた最前線の兵士たちの姿である。

電通は広告産業という平和産業である、と思いを募らせて入社が叶ったのだけれども、私の入社時には、いわゆる職業軍人だった社員が実に多く居た。戦後の我が家の生活を必死に支えた母の労苦を思うと、どうしてもある距離感をもってそうした先輩達に接したものだった。その中のお一人が上司、部長の横山一三氏であった。  

 815日の業務日誌に、私は長文の戦争責任論を書いて提出した。横山部長からは懇切な返事をいただけた。文中にはガダルカナル島で憤死した兵士達への痛哭なる呵責と、巣鴨刑務所の独房で死刑判決を受けて服役した時日の苦吟とが率直に綴られていた。日頃接している氏の指揮官としての高い能力や並外れた優しさの源泉に触れた思いがして、死線をくぐり抜けた人のみがもつ強さとしなやかさに心底から胸を打たれたことを思い出す。


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らを振り返る機会

・服部庸一編

海老塚 修

 国際スポーツ権利ビジネスのパイオニア、服部庸一さんの足跡を記す機会を得たことに感謝しています。服部さんは私が30代の頃にお世話になったとても怖いボスでしたが、その波乱万丈の半生を描くにあたって、やはり上司だった長谷昭さんと共同で執筆できたことも得難い経験でした。

 服部さんが立ち上げ、室長を務めた10人にも満たない小さなISL室という組織に加わらなければ、私自身がスポーツマーケティングの経歴を積むこともなく、その後の人生も自ずと変わっていたと思います。記憶にあるのは何回も叱責を受けたことですが、服部さんは不思議な魅力を感じさせる男で、社員の中でも一癖二癖ありそうな先輩たちが何かと頼りにし、頻繁に訪ねて来ていました。一方、ジミー福崎さんをはじめ、海外にも服部さんを慕う人は多く、今回の執筆に際してはロサンゼルスやメキシコに国際電話をかけ、そのような方々にインタビューしました。みなさん「服部さんの功績が文章として残るのは嬉しい」「素晴らしい人だった」と口をそろえて称え、本企画の実現に感謝して下さいました。

 今の電通でスポーツ領域に従事している若手社員にとってはピンとこないでしょうが、40年も前に道なき道を切り開いた先駆者がいたことを忘れてはなりません。

 「オリンピックビジネスを掴んだ男 服部庸一」が外部の目に留まり、取材に応じたことが何回かありました。電通が世界に誇るスポーツビジネスは簡単に手に入ったものではなく、先人の努力の賜物なのだということを多少なりとも再認識していただけば幸いです


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い出すよい機会に

・大竹猛雄編

圓佛 誠孝

 20146月、北野邦彦さんからの連絡で社友会会議室でのD-21の例会に初めて出席した。北野さんは現役時代一緒にインドへ出張したこともあり存じ上げていたがD-21 という会の存在は知らなかった。例会では岡田芳郎さん、北野さんをはじめ会員の皆さんがウェブ電通報に載せる「電通を創った男たち」シリーズの執筆計画を熱心に議論されていた。その熱気は大変印象的だった。

 大竹猛雄編の執筆にあたり土橋赳夫さんが大竹さんの生いたちから電通時代まで、私がISID時代以降を担当する共同執筆ということになり情報、資料収集が始まった。まずは大竹さんの甥にあたる元ISID 役員の大竹達雄さんから話を聞き、その後資料をいただいた。大竹さんは自分のことはあまり話さない人だったので、米国加州生まれのその生い立ちは初めて知る興味あるものだった。ISIDでの取材では共に役員の福山章弘さんと上原伸夫さん、元秘書の猪狩昌子さん、安居院秀子さんらに大竹さんの思い出を話してもらった。秘書課長の条生秀成さんには古い社内報や社長訓示などの資料に加え貴重な写真の提供もしてもらい大いに助かった。 また自宅倉庫に眠っていた私の業務日誌56 冊が思いがけず役に立った。大竹猛雄編が掲載された2015年はちょうどISID創立40周年。電通広報部の同意を得てISIDは記念冊子として別製し全社員に配布した。

 大竹さんと一緒に出張したシカゴで電通の駐在員をしておられた兄上、守雄さん宅にお邪魔したことがある。そのときのお二人の仲の良いご様子がとても微笑ましくよく覚えている。大竹さんの社葬ではISIDの役員退任後にも関わらず当時の一力会長、瀧浪社長のご配慮で実行委員長を務めさせていただいた。その仕事を通じて私の中の大竹さんの人物像が更に大きくなった。いろんなことを思い出すよい機会となった今回の執筆だった。有難いことだったと感謝している。


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脳とスピリッツ 仕事とユニークネス

・木原通雄編、・小谷正一編

・野崎隆也編

・松前洋一編

岡田 芳郎

  シリーズ「電通を創った男たち」で私が書いたのは、木原通雄、小谷正一、野崎隆也、松前洋一の4人です。

 木原通雄は、私が入社する前から名前を知っていたただ一人の電通マンでした。入社の前年(1955年・昭和30年)、「銀座のバーのママと電通社員木原通雄の心中」というイエローペーパーの記事の見出しが駅のスタンドに煽情的に踊っていたのを私は記憶していました。文学青年だった私はその時、電通をロマンチックな、色気のある人々の集団だと思い、そのような大人の世界にあこがれのようなものを抱きました。

 今回このシリーズが始まるに際し、私は第一番目に木原を書き本当の姿を調べたいと思いました。そして知ったのは彼がラジオ・テレビの黎明期に果たした役割の大きさとその独特の自由な生き方です。彼によって日本のラジオ・テレビ産業はスムーズに出発できたといえるでしょう。

 電通に入る前、木原は敏腕のジャーナリストでした。太平洋戦争終結の詔勅を執筆したことは知られています。さらに昭和27年全社員に配布した吉田秀雄社長の「鬼十則」は木原が吉田のメモを整理し簡潔な10項目の言葉にまとめたものです。吉田秀雄は木原通雄にこれからの電通マンの姿を見出し、彼のような社員がどんどん増えてゆくことによってそれまでの広告屋の古い企業体質を一変させ、全社員が自ら考え表現する力を養うことを期待しました。木原はそのリーダーして先頭に立つはずでした。彼の不慮の死によってその願いは断ち切られましたが、吉田秀雄は木原の後を継ぐ人物を社外に求めました。

 小谷正一はそのようにして吉田に強引に電通に呼び寄せられた人物です。戦後日本を代表するプロデューサーといわれ、電通入社以前に新聞社、ラジオ局、テレビ局などで数多くの社会的話題となる事業を成功させすでに伝説の人でした。吉田秀雄が小谷正一に求めたものは若い社員が目標とするべき電通人像であり、電通がスペースブローカーから脱皮して頭脳で勝負する新しいビジネスへの転換でした。小谷は電通にプランニング組織をつくり、アイデア、プランという形のないものを有料化する仕組みを作ってゆきました。吉田と小谷の示した道を電通は正しく受け継いで今日に至っています。

 シリーズ「電通を創った男たち」で私が書いたのは、木原通雄、小谷正一、野崎隆也、松前洋一の4人です。

 木原通雄は、私が入社する前から名前を知っていたただ一人の電通マンでした。入社の前年(1955年・昭和30年)、「銀座のバーのママと電通社員木原通雄の心中」というイエローペーパーの記事の見出しが駅のスタンドに煽情的に踊っていたのを私は記憶していました。文学青年だった私はその時、電通をロマンチックな、色気のある人々の集団だと思い、そのような大人の世界にあこがれのようなものを抱きました。

 今回このシリーズが始まるに際し、私は第一番目に木原を書き本当の姿を調べたいと思いました。そして知ったのは彼がラジオ・テレビの黎明期に果たした役割の大きさとその独特の自由な生き方です。彼によって日本のラジオ・テレビ産業はスムーズに出発できたといえるでしょう。

 電通に入る前、木原は敏腕のジャーナリストでした。太平洋戦争終結の詔勅を執筆したことは知られています。さらに昭和27年全社員に配布した吉田秀雄社長の「鬼十則」は木原が吉田のメモを整理し簡潔な10項目の言葉にまとめたものです。吉田秀雄は木原通雄にこれからの電通マンの姿を見出し、彼のような社員がどんどん増えてゆくことによってそれまでの広告屋の古い企業体質を一変させ、全社員が自ら考え表現する力を養うことを期待しました。木原はそのリーダーして先頭に立つはずでした。彼の不慮の死によってその願いは断ち切られましたが、吉田秀雄は木原の後を継ぐ人物を社外に求めました。

 小谷正一はそのようにして吉田に強引に電通に呼び寄せられた人物です。戦後日本を代表するプロデューサーといわれ、電通入社以前に新聞社、ラジオ局、テレビ局などで数多くの社会的話題となる事業を成功させすでに伝説の人でした。吉田秀雄が小谷正一に求めたものは若い社員が目標とするべき電通人像であり、電通がスペースブローカーから脱皮して頭脳で勝負する新しいビジネスへの転換でした。小谷は電通にプランニング組織をつくり、アイデア、プランという形のないものを有料化する仕組みを作ってゆきました。吉田と小谷の示した道を電通は正しく受け継いで今日に至っています。



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変な仕事が来たなあ、と思った

・今村昭編

小田嶋 伸幸

 2015年夏頃、先輩の伊藤徳三さんから直筆の手紙が来た。今村昭を書けとの依頼だ。瞬時に大変だと直感した。確かに私は部下だった。CMの仕事は限りなく共にした。今村さんは石上三登志という映画評論家だが、その映画や漫画やミステリーや諸々の趣味も同好の士だ。一緒にSFの脚本まで書いたりもしている。彼を知りすぎている。身近すぎる。

 初めは断るつもりでいた。なにげに彼の評論本を読んだりしている内に気が変わった。自分が書かないと誰がやるのか。伊藤さんに返事をしたのは1カ月後だった。まず記憶を詳細に洗い出した。彼の著作は持っていた。参加した映画誌は神保町で揃えた。読み込んだ。関係者に取材した。資料課からCM集を借りた。綿密に視聴しメモした。CM 業界の歴史を調べた。奥さまは既知だが向うは覚えてないので、改めてコンタクトした。銀座電通など関係場所をロケし記憶を確認した。今村さんの年表を作り、少年時代から電通退社までを把握した。自分の接触を重ねて、物語を構想した。原稿の執筆は1回分毎に伊藤さんに送信し、チエックをいただいた。14回の長編になったが実は省いたネタの方が多い。書きながら思った。これはある時期の電通制作CM史、また自分史でもあるのだな。いろんな人を思い出しもした。後に江戸川乱歩賞、直木賞作家となる藤原伊織さんもその一人だ。毎晩飲んでポーカーをやっていた(彼の小説のように)。また今村さんの知らなかった面も知った。奥さまの話では、家では仕事の話は全くしなかったという。唯一の例外が「レナウン・イエイエ」で、これ、どう思う?と聞かれたそうだ。「素敵なCM!」と答えると、破顔一笑したという。

 今村さんや電通のある面がわかった気がした。ビジュアルを集めるのが大変だったが、いまは執筆、制作してよかったと思っている。


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えば遠くへ来たもんだ

Ⅰ・田中寛次郎編、Ⅰ・塚本芳和編、Ⅰ・松本豊三編

Ⅲ・藤原伊織編

北野 邦彦

 今から7年前、201211月、岡田芳郎さんからメールをいただいた。「電通地上の星」という仮題で電通人の軌跡をまとめてみたいのだが、という内容だった。岡田さんとは旧知の間柄だし、ご趣旨にも全く異論はないので、タイトルを「電通を創った男たち」と改題し、さっそく数名の電通OBと企画を進めた。電通社友会が毎回の会議の場となった。

 2013年春、『電通報』がWEB版をスタートさせるので目新しいテーマを探しているという話を耳にして企画提案したところ、CC局小林光二局長から掲載快諾の返事があった。『電通報』という、しっかりした発表の場が確保され、広報部渓朋子部長が担当ということで執筆陣にも気合が入り、連載内容も好評であった。しかし2015年暮れに起こった例の一件で、『WEB電通報』での掲載見合わせの止むなきに至り、掲載の場を「電通社友会ホームページ」に移し、連載を継続すること3年。「電通を創った男たち」シリーズも遂に「終活」の時を迎えることとなった。

 私自身は、吉田秀雄と同期入社、電通通信部の記者であり、戦後の日本にPRを導入した「田中寛次郎」編、満州マスコミ界の重鎮で、吉田秀雄に乞われて入社し、マスコミ界、産業界における電通の地歩を押し上げた「松本豊三」編、日本の市場調査界、ニューメディア界、電通の経営に新たな息を吹き込んだ「塚本芳和」編、直木賞、江戸川乱歩賞受賞の「藤原伊織」編の4編を担当した。中でも塚本さんには直属の部下として数々のご教示をいただき、藤原さんとは広報室の同僚として様々な思いを共にしたが、4 名の方々すべてに思いの尽きることはない。
 2018年に彼岸に渡った「阿部忠夫」編執筆の上野義矩さんはじめ、27名の執筆者による30編の「電通を創った男たち」シリーズは今回で終了するが、いずれの日にか、どなたかが新たな第二次企画を展開されることを願って止まない。このシリーズも7年も過ぎて、思えば遠くへ来たもんだと実感しきりだ。


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イバーシティー 電通と電通人

・永田進編

佐藤 孝夫

 令和元年9月初旬、故永田進氏の13回忌が鎌倉・浄明寺の永田邸で営まれ、私は彼の僚友土橋赳夫氏とお伺いし、仏前に,「PRの伝道師・永田進」一篇を手向けてきた。「俺はこんなんじゃないよ」と、永田さんは草場の陰で、怒りはしないまでも苦笑いぐらいしてくれただろうか。

 作家山本周五郎は『歴史と文学』というエッセイの中で「文学の場合(目的)は、慶長5年(1600年)の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなくて、そのときに、道修町の、ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたかで、であって、その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探求するのが文学の仕事だと私は思います」と述べている。
 慶長5年は「関ケ原の合戦」があった年である。そのとき、関ケ原の戦場で徳川家康や石田三成がどういう戦いをしたか、また、大阪城に残った西軍の毛利輝元や豊臣秀吉の愛妾淀殿や遺児の秀頼がどういう思いをしていたかについては、学者や作家、
あるいは映像作家らが、史書や小説、映画、TVなどでさまざまに書き記し、表現し、われわれはそのありさまを活字や映像で知ることができる。
 しかし、西軍が関ケ原で敗走し、東軍が騎虎の勢いのままに大阪まで押し寄せ、大阪の町はたちまち火の海になるのではないかと、大阪の庶民があれこれ思い悩んだであろうことは、史書や物語で語られることは少ないであろう。
 このシリーズは、例えて言えば、関ケ原合戦史に描かれる英雄譚ではなく、道修町の手代や丁稚という市井の人々が、その当時どういう思いで生きていたかが綴られたものである。故に、これは歴史書ではなく山本周五郎が言うところの
文学になっているように思われる。

  電通の作業内容や業務の実態は、昔も今も、語るに難しい。人がすべてであり、その人というのが十人十色どころか百人百様である。いずれも個性豊かで、一括りには語れない。まさに、ダイバーシティーそのものであり、電通の魅力はそこにあると思う。


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十四年前、藤原伊織に出会った

・藤原伊織編

鈴木 茂

 『ダックスフントのワープ』ですばる文学賞をとった男がCRに異動してくるという噂を耳にした直後のことだ。みどり色の鞄を肩から提げ、やたら声のデカイ奴というのが最初の印象。すぐに口を利くようになったのは、感覚的に似た者同士、馬が合ったのか。気がついたら、めしを食い、酒を飲む仲になっていた。彼の酒量、喫煙は相当なものだった。読書の量の凄さ、そのジャンルの広さに目をみはった。くりだす話題も豊富かつ新鮮。日々刺激的な知のシャワーを浴びさせてもらったと感謝している。(おおきな声では言えないが)仕事の話はほとんどしたことがなかった。

 ギャンブル好き酒好きで無頼なイメージの作家と思われているふしもあるが、それは一面のこと。本質は全く異なる。話好きで、気遣いがあり、清廉な人柄だった。ながい付き合いからそう思う。『テロリストのパラソル』の終わりのほうで、「君はのんきだった。ほんとうにのんきだった。鈍感さとはちがう。春の野原に一本だけ立つ樫の木みたいな自由なのんきさだよ」と、友人の桑野が主人公の菊地に向かって言う場面がある。この菊地評が多分に藤原の生きた姿と重なってみえる。がん告知を受けた後も自然体を貫き、ひょうひょうと死に赴いたタフな精神力こそ、藤原のダンディズムであったのだろう。
 十二年前、藤原伊織は亡くなった。

 数年前、広報室の渓さんから藤原の執筆依頼があった際、一度は断った。なんとか原稿を仕上げられたのは、藤原が書かせてくれたのかもしれない。二十数年付き合ってくれた藤原への恩返しがわずかでもできたのであればうれしい。


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れ得ぬ人々

・大竹猛雄編

土橋 赳夫

  40年の電通生活の中で尊敬する大先輩、敬愛する上司、戦友とも言える同期に出会えたことは、器の小さな自分にとって幸運であった。その人たちが本シリーズに取り上げられその執筆と編集に携われたことも嬉しかった。

 執筆を担当した「大竹猛雄」のまさに威風堂々としたお人柄は思い出深い。直接編集に携わった「根本軍四郎」は、息子さんや娘さんに、読んだ得意先や職場から感銘と激励の声をかけられ、あらためて父の人柄に触れ感慨深い思いをした、と知らされ良いことをしたと思った。本企画唯一の女性「村山千代」の編集に携われたことは、関西支社勤務時の関西社友会で晩年の村山さんにお会いできたことも含め印象深い思い出である。同じ関西の電通マンとして掲載された「田井中邦彦」については、4年前当初原稿依頼と編集を行ったが事情あって掲載中止、後任の編集者の努力で完成掲載されたことは感慨深い。

 なによりも心に残ったのは、同期入社のPR局永田進君と営業に異動したばかりの私が、1964年、東京オリンピック公式計時のSEIKOPR作業を担当したことであり、彼を本企画に取り上げることが出来たことである。おりしも「永田進篇」掲載の2019年は彼の十三回忌にあたり夫人はじめ家族の皆さんにも喜んでいただいた。


 また、僧職でありながら電通という生臭い職場で己の信条を通した「筧一生城氏」の編集に携わったことも愉しかった。根本軍四郎、筧一生城両氏を執筆された松浦一夫さんは営業時代の先輩でもあり、その見事な筆致の編集をさせていただいたことも有難かった。

 過日NHKBSプレミアムで放送された「英雄の選択 広告の大先輩片岡敏郎」に出演された本企画リーダーの岡田芳郎氏が「片岡の広告に対する姿勢は品性と愛だと思う」と語っておられたが、本シリーズに登場する人々も、夫々独自の「品性と愛」を持っていたのではないかと思う。



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ミさんを語る

・鈴木富美男編

土屋 信雄

 ある朝突然 先輩の北野邦彦氏より「電通を創った男たち」をシリーズ公開しているのを知っているよねと電話が入った。「鈴木富美男さんと随分長い付き合いのようだけれど このシリーズに登場させようョ」
 
私自身このシリーズには初回から関心があり 電通とその関係者に留まらず出来るだけ多くの方々に読んで欲しいと思っていた。しかし鈴木さんと知り合っておよそ50年、電通生活だけにとどまらず人生の師であり、私生活にも若干触れさせていただいた関係もあり、そう容易く書けないと大いに逡巡した。

 7月の初め、1964年同期入社の集いがあった。参加者の何人もがこのシリーズを読んでいて、鈴木氏と仕事の繋がりや上下の関係が薄かったと言う方まで「フミさんはサー…」「フミさんはナー…」と100年の知己のように語らっていた。

 実に多くの社員に慕われていて、時にはビヤーホールに多人数で集合しては乾杯を繰り返していた姿が昨日のように思い浮かぶ。

 このシリーズ「フミさんと呼ばれた男」が縁で当時の総務局と協力会社の皆さんと十二・三年ぶりに会合が持たれた。鈴木チームで汗かいた面々。
 「勢いよくモクモクと黒煙噴き上げながら急勾配をよじ登っていく機関車だったよナ」。
 ある方は「機関車は機関車だけど、大汗かきながら石炭を途切れなく補給している偉大な釜焚きョ」。

 この会の次回は
「SL」フミさんを語るに決まった。
 このシリーズは共に苦労した仲間との繋ぎを復活させてくれた。ありがとう。



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しゃれな人生」を駆けぬいた営業マン

・曽田卓夫編

信田 和宏

 電通で過ごした30数年を思い浮かべるとき、多種多様な人たちが集い、多種多様なビジネスと文化が作られる。これが電通と言う企業の風土であり根源であろうと感じている。
 そして、電通の築いてきた成果は絶えず時代をクリエイトしてきたものであり、そこで働く人たちは時代のトップランナーとしての自負を持っていたと考える。それは何十年と変わっていないことだろう。

 日本の経済成長が上昇一途であった時代(昭和中期から後期)は、多くの人が寝食を忘れて働き、かつ、泥臭く頑張ったと言われる。そんな時代でも先人たる電通社員は個性を生かしながら多様なものを産みだしてきた。そして、素敵な生活を提示しエンジョイしてきたと思う。そしてそれが今でも電通カルチャーとして引き継がれているのだろう。

 私が新人時代(昭和40年代)に出会った頃の曽田さんは一見、近づきがたい猛烈社員のように思われていた。クライアントにはアポイントもなく出かけ幹部に会う、そして、仕事の話をしてくる。決して机に座って部下の行動を見ている人ではなかった。時に強引さもあったが後を濁すことはなかった。むしろ、仕事に、生き方に「おしゃれ」を感じることが多かった。


 電通最大のクライアントになったトヨタ自動車との強いパイプを築いたのも彼の功績である。それは彼が単なるビジネスマンではなく深みをもった人間であったのだろうと感じている。そして永い電通の歴史の中で脈々と流れる電通カルチャー(創造的なビジネスと生きがいを産む風土)を作り上げた功労者の一人でもあろう。私は入社早々、彼の下で電通ライフを送ることができ、そして電通カルチャーの一端を経験してきたことはまさに幸運としか言えない。

 今、私は過去を思い浮かべ半世紀も前にアクティブにビジネスに向き合いながら自分の
ライフスタイルを持ち、トレンディに颯爽と時代を闊歩したおしゃれな曽田卓夫さんのことを現役世代の多くの人に知っていただきたいと思うのである。



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「備忘録」のすすめ

・服部庸一編

長谷 昭

 5年程前、宴席の折、北野邦彦さんから「電通を創った男たち」シリーズの話を聞いた。
 
「大変お世話になったのだから、服部庸一さんを書いてみたら」との強引な誘いに、酒の勢いもあって、つい安請け合いをしてしまった。しかし、それからが、大変だった。

 服部という巨人の残した生涯の足跡は、あまりにも広大で、とても私一人の手に負えるものでは無かった。
 結局、入社以前から、ラジオ・テレビ局、プランニング室迄を私が、その後の、オリンピック、ワールドカップサッカーを、海老塚修さんに、お願いしての共同執筆となった。

 取材に当たっては、私よりはるかに、服部を深く知る数多くの方々の協力を得ることが出来、とても書くことをはばかる、面白い裏エピソードも、聞かせていただいた。共通することは、彼が電通の仕事をいかに愛し、生涯、一プレイヤーを、つらぬき通したことであった。
 彼の口ぐせだった「サムシング・スメル(何かあるぞ!)」裏があるのではと常に疑いつつ、独特の嗅覚で、新しい試みに取り組み、未知の世界を切り開く行動力で、電通の活動領域を広げて行く、まさに「破天荒」の語源そのままの、偉大な先駆者だった。

 「電通を創った男たち」シリーズも、とりあえず終了となるが、取材に際して痛感したのが、人間の記憶が、いかにあいまいで、思い込みが強いか、ということである。社の仕
事に携わった電通人は、たくさんの「想い出」をお持ちのことと思う。この際、記憶の定かな内に、ご自分の過去を、振り返り、「備忘録」を残されては、いかがだろう。

 
今回の素晴らしい企画を思案された、岡田芳郎さん、北野邦彦さんに、感謝をすると共に、今回取りあげられきれなかった先達も多い。次の世代で、また新しいシリーズが継続されることを、切に願いたい。


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白い時代だったなぁ

Ⅱ・三森重道編、Ⅱ・加藤菊造編

濱田 逸郎

 北野邦彦さんから営業企画局の初代局長であった加藤菊造さんのことを書けと言われた時、「それはぼくの仕事じゃない」と思った。
 もちろん菊造さんはぼくの会社人生に大きな指針を与えてくれた大好きな上司だ。しかし、個人的交流は深いとは言えず、プロジェクトをご一緒したこともなく、ぼくよりも菊造さんを知る仲間はほかに何人もいる。北野さんに無理強いされ、自分なら何ができるか迷っていると、突然「加藤菊造と営企の青春譜」というタイトルが頭に浮かんだ。

 
営企という組織の歴史は決して長くはない。でもそれは電通が広告代理店から総合コミュニケーション産業へと脱皮する節目で大きな役割を果たした存在ではなかったか、その時代はまさに電通の歴史の重要なひとこまであり、その組織にかかわった内外にわたる多くの人たちの青春の輝きに溢れた時代ではなかったのか。菊造さんに仮託して、あの時代を語ること、あの組織を語ることはできないだろうか。

 いずれにせよ営企のことはなんとか記録に留めておきたい。知らないことはみんなに取材して聞き出せばいいじゃないか。そう思い至ったとき、はじめて「書ける」と思った。「書きたい!」と思った。当時の仲間と思いを共有したいし、若き現役の諸君へのエールとして伝えてゆきたい。いろいろな人にヒアリングして回るのに1年を費やしてしまったが、いざ掲載されると、菊造さんの人徳を偲ぶ声、営企を懐かしむ声が多く寄せられた。
 これを機会に昔の仲間で集まろうとの機運が高まり、銀座でささやかな営企同窓会を呼び掛けたところ、30人を超える懐かしい顔が集まった。半分は旧局員、半分は兼務発令をした他局員や海外・国内の支社支局の協力メンバーだった。こんなに、みんな菊造さんや営企に愛着を持ってくれていたのかと、改めて目頭が熱くなった。

 もうひとり、このシリーズでぼくが筆を執ったのが三森重道さん。営企にいたとき多く仕事をさせてもらったNTT(電電公社)の担当営業部長だ。民営化にあたってのCI、つくば博の企画など、営企で取り組んでいた新しいビジネスの実践の場を与えてくれたのが三森さんだった。三森さんが主宰する企画会議を通じてぼくのプランニング手法の骨格が作られたと思っている。

 加藤菊造さんと三森重道さん。ぼくに多くを与えてくれた2人はいずれも還暦を待たずして病魔によりこの世を去った。菊造さんは58歳、三森さんは56歳の若さだった



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きな足跡をたどって

・新井静一郎編

深川 英雄

  「電通を創った男たち」シリーズの発起人とも言うべき北野邦彦さんから依頼があって、筆者が執筆を担当したのは新井静一郎さんである。
 新井さんは、筆者の大先輩。と同時に、広告クリエーティブ界の第一人者でもある。その活躍は、戦前から戦後におよび、新
井さんの社内外に及ぶ交友関係を追うだけでも、優に一冊の本ができあがる。さて、そんな大きな足跡を残した新井さんを、どう捉えるか。作業は難航したが、幸い新井さんは、『広告のなかの自伝』『ある広告人の記録』など、数冊の著書を残している。そこで、これらの著書を手掛かりに、話を進めていった。

 筆者は、生前の新井さんと接する機会が何度もあった。ある時はクリエーティブ局長として。またある時はクリエーティブ担当役員として。…総じて、筆者の印象は、笑みを絶やさぬ穏やかな紳士、といったものであった。
 ところが、調べてみると、新井さんには、つねに広告クリエーティブ界の第一線にあって、その質の向上、社会的認知の確立に、力を尽くすことを惜しまないといった厳しい一面があった。穏やかなだけの「鳩」ではなかったのである。そういえば、ある時、他社制作のユニークな広告を前にして、「こういうインパクトのある広告を、なぜ、あなた方は作れないのですか」と、厳しい表情で周囲の人びとに問いただしていた情景なども思い出す。

 この原稿で、筆者は、新井さんの個人的な人柄、エピソード、親族の方がたの回顧談などにはあまり触れなかった。広告界に残した新井さんの足跡をたどることに重点を置いたからである。掲載後、何人かの人から新井さんの個人的な話柄についても触れてほしかった、という話を聞いた。残念ながら、それについては、またの機会に譲りたい



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ジラと呼ばれた男番外編

・野田孝也編

藤江 健介

 野田さんの真骨頂は、「豊田年郎氏、および成田豊氏という両巨頭の各々に、真正面から仕え、またそのお二人から評価されていた」ということではないか、と改めて気がつきました。
 これは、実際にその時代の電通をご存知の方々には、十分納得していただけること思いますが、そのお二人とも、ある時代の電通を作ってきた強烈な個性の電通人でした。

 副社長までなられた豊田年郎氏は、社内だけでなく広く万博の専門家と評価され、その人脈は芸能界など極めて広く深く、その天才的な閃きと感性も含め、「織田信長」にも例えられていました。
 一方の成田豊氏は、株式上場を実現し電通の近代化に道を拓いた、文字通り電通の大社長として「徳川家康」に例えられる偉大な電通人でした。

 野田さんは、織田信長に仕え、それから徳川家康に仕え、しかも両者から高い評価を受けるという、稀有の経験をしてきました。

 サラリーマンは上司を選べません。決められた上司に忠実に仕え、成果を重ね、信頼を受けるに至ることこそ、特筆すべきことではないかと思います。
 しかし、野田さんは要領が良いタイプではなく、むしろ極めて不器用な普通の人でした。そんな野田さんが、どうやってお二人のリーダーに仕えたのでしょうか。

 野田さんのやり方は、目の前の課題と真正面から向き合い、愚直に工夫し、もがき苦しみ、一歩ずつ前に進んで行っていました。普通のことを普通にやるのが野田流でした。リスク時の捌きでは一目置かれていた、と言う方がおられましたが、リスク時でも出来るだけ平常心で対応していました。
 
日頃からの猛烈な量の読書と、多くの方々と先入観なく付き合っていたことは、野田さんの合理的判断にプラスになっていたと思います。

 戒名も位牌も不要だと言い残し、それを実践された本物の合理主義者。
そんな野田さんが亡くなられて既に20年。
改めてご冥福をお祈りさせていただきます。


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さん!

・岡田 耕編

増田 良夫

 『耕さん!』について執筆感想文。パソコンに向かったが、指がまったく動かない。脳がいかれて、平べったいまま、いっこうに波立たない。仕方ないから、これも『くるくる掲示板』から引き出して用を足すしかない。文中、戸塚カントリークラブへ行ったのは1980 年頃。書かれたのは2001年、耕さんの亡くなった翌年であることを念頭に、お読みいただければ幸い。

 耕さんと戸塚カントリークラブへ行く日のことです。私の家(千葉)からコースまで遠いこともあって、前夜、岡田家(逗子)に一宿させていただきました。翌朝は残念ながら雨で。かといって中止するわけにもいかず、耕さんもしぶしぶ身支度にとりかかったと思召せ。

 「増田さん、こんなものでいいでしょうか?」 

 岡田夫人といっしょに現われた耕さんのいでたちを見て、私は一瞬たじろぎました。もしかしたら「コース整備のおじさんに間違えられるかもしれない」と。

 「ほんとに、だいじょうぶでしょうか?」

 岡田夫人の心配には理由があって、前の晩、戸塚カントリークラブが一流コースであることがもっぱら話題になっていたのですね。「心配いりません」と答えたかどうか、このへんは定かではありませんが、「耕さんなら許される」と思ったのはっきりと覚えています。

 世の中にうらやましいものは数限りなくありますが、私にとってそのひとつが、この耕さんの『天真爛漫さ』でした。とりわけ世間体を無視するというか、黙殺するというか、「俺はオレだ」という耕さんの姿勢は、私には生涯望み得ないものだとあきらめています。

 いま、テレビでアメリカの若いプロゴルファーを見ているとみんなチノパンを穿いています。ゴルフはスポーツだという気概がキラキラと発散しています。あれこそが、じつはあの日の耕さんのゴルフ・ファッションだったのです。

 私には、あの世で耕さんと再会したら、真っ先に訊くことが決まっている。『鬼十則』が抹殺された。耕さんはどう思われるか?

 「つまらない質問すんなよ、」

 前髪をくるくるしながら、苦虫を噛んだような耕さんが見えるのだが、さていかがなものか。

「決まってるじゃないか!増田くん」


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リーズ「電通を創った男たち」に携わって

・根本軍四郎編

・筧一生城編

松浦 一夫

 今回のシリーズ企画で私は「筧一生城」編と「根本軍四郎」編を担当させていただいた。執筆にあたっては、お二人のご遺族、ご友人、電通OB、現役とたくさんの方々から貴重なお話を多々お聞きすることができた。このご協力がなければ恐らく原稿の完成はなかったと思う。改めて皆様方に厚く御礼を申し上げたい。

 多くの方々から、数多いエピソードをお聞きすることが可能だったのは、いかにお二人が皆さんから愛され、尊敬されていたかの証しに他ならない。筆者もお二人の下で長年にわたって充実した電通生活を送れたことを改めて噛み締めている

 たしかにお二人とも、独特のキャラクターの持ち主で大変な猛烈社員であったし、愛社精神も人一倍強かったが、なによりも自分の部下たちに深い愛情を持っておられた。特にアフター・ファイブの時間を利用し、われわれとのコミュニケーションづくりに努力されていた。
 今の時代にあわないといわれれば、それまでだが果してそうだろうか。部下たちの公私にわたる悩みにも真摯に対応し、決してつめたく突きはなすことはなかった。今時の上司たちは自分の部下たちの仕事上の悩みをいかほど把握しているだろうか。上下間のコミュニケーション不足が引き起こす問題が最近あまりにも多いような気がするのは小生だけの杞憂にすぎないのだろうか。どれほど科学が発達し、パソコン、スマホが普及しても、人と人とのコミュニケーションづくりの基本はあくまでも「フェース・トゥ・フェース」だと小生は信じている。

 最後までお寺の住職と電通人の仕事を両立させ全うされた筧さん、多くを期待されながらあまりにも早逝であった根本さん、電通には、ちょっと粋で才能のある人材が本当に多かった。
 
今後の電通にも是非、先人たちの残した心意気が伝えられてゆくことを願うばかりである。心よりお二人のご冥福を祈りたい。



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             <完>

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